空白の空に手を伸ばせば
僕たちは、絶望の淵に立たされたときに、どれだけを他人を愛せたかを競い合い、運命という偶然に縋りつき、涙の数をいつまでも数え続ける。
この手には光はないけれど、この指はいつまでも太陽には触れないけど、地面はいつまでも湿っぽいままだけど、ほんの少しの日差しに背中を授けた。
あの戦で敗れた錆びた勇気の剣や苦しさの盾は、干からびた街のシンボルとして土の中で眠り、互いの夢を蝕むことなく慰め合う。
あの日の私は何になりたかったのか夢の続きの演奏の果てのような感覚から、目を覚ましたその時にたった一つの心やらを教わった。
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恋愛とは、頓馬のように鈍く輝くのではなく、互いに光り続けたいと思った時に、それはたった一つの結晶となり、私たちの胸元でいつまでも踊り続ける。
私たちの背丈よりも、巨大な天運よりも、計り知れない運命よりも、それは偉大で気高い雲や月をも通り抜けて、星空を降らすのである。
私の心の中にある顕微鏡は、小さな愛さえも肉眼で確認できほどに陶酔して、不恰好な芝生の上で永遠に愛を語り合い、午後の微睡に運命を手繰り寄せる。
大きな口を開いた巨大な傍観と、小さな拍手の中にある偶然な愛情と、不甲斐なさが残る夜がいつまでも鳴り響き....
学問を学ぶべき本当の理由とは何か?
学問の意義とは、人類の知的認識領域の拡大、個人の知的好奇心の向上、知的財産の拡大を意味する。
学問は、生活上の便宜と利得の増大、教養における自我形成を目的し、他への誘発として決定付けられる。
正直、長年、勉強を続けていると、学問の意義に対しての多大なる信頼というのが漠然となってしまう場合があるが、必要以上にお金に執着することなく、それを身につけ、何の役に立たなかったとしても、ただ学問を愛し、追究し、学び続けていくことで、人生を豊かにする、イェール大学の教訓を真っ向していけば、自然とその学ぶ過程において、些細な物事の理解の蓄積が自我形成に繋がるという訳である。
例え、周りから評価が得られなかったとしても、心から楽しいと思えた瞬間の積み重ねであるのなら、学問ではなく、雑学だったとしても構わず、惜しみなく学ぶと良いだろう。
まずは健康を学ぶ
勉強を始めるにあたり、まず、優先的に学ばなければいけないことは健康についてである。
若い頃は、健康について疎くても、良好であるが故に物事を簡単に覚えることができたり、卒なく、関節を動かし、健康維持のために運動に励むことができるため、それを意識して吸収する必要性は感じない。
が、歳を取るにつれて健康の需要が高まり、今まで何も準備していなかった人は躍起になって取り組むようになる。
例えば、暗記が思うようにいかない場合は、生活習慣におけるストレスが起因して、頭が上手く回っていなかったり、食べ物を良く噛んで食べる習慣が欠けていたりと生体的、健康的な面での欠陥及び知識不足が原因であろう。
何事も焦らずに丁寧にこなせれば、一字一句暗記することは病気を抱えていない限り習得できると思う。
考え方が甘い、浅いというのは生体的な危機の過小が原因であり、起こりうる困難に対して予測が立てられていれば、その思考の深さのレベルは一定の水準をキープしているはずである。
集中力、思考力、柔軟性、発想力、計算力、力という漢字のほとんどは人間から発動する力であり、その人間の特性を理解していれば、時間軸でのコントロールは上手くいくという話である。
あと、持病を抱えている人に関しては、完治は難しくても、健康の75%程度を目指して努めると良い。
努力の認知の仕方について
努力とは、それ単体では単位というのは与えられておらず、目標を達成させるためのナッシングからの起立として用いられている。
そもそも努力とは、目標達成における過程のアクション、実績を積み上げるための発破、ベクトルとして扱われており、
目標を掲げて、そこに到達するために邁進すること、つまりはベクトルでもあり、その過程の時々で要求され、クレープの層のように積み重なった時に初めて数として認知される。
頑張っているのに報われないという言葉があり、よく励ましとして間違った方法で努力をしているから成果にならなかっただけというが、その励ましは55%程度の回答に過ぎない。
結局のところ、考え方が甘かった、つめが甘かったというような初期段階、性格、思考のレベルまで深く掘り下げていかなければいけなかったと教えてあげるのが適当と言える。
勉強も、最初に生徒たちに記憶の仕方、暗記におけるプロセスを簡単な文章で構成された教科書で説明してあげれば、国民全体の学力というのは満遍なく向上したはずである。
努力とは何かという共通認識の齟齬により生じる差の中には、思考、健康、記憶、スケジュール管理、論理、生体、人間、動物的本能というように有数の要素によって構成され、その具合によって評価値というのは変動してくる。
また、努力について難しく考える必要はないという人も稀にいるが、少なくとも何かを続けていく上でそれについての問いを深く考えなければならない場面というのは必ず訪れる。
教育とは何か?
教育というのは、こどもが自ら何事にも楽しくチャレンジできる環境を整えてあげることであり、座学という互いのコミュニケーションを末としない考え方を最小限にした実学ベースの教育が望ましいというのが一理である。
例えば、座学は実行に移せない本の内容であり、幅広く知識教養を身につけて新しい知見を増やすのには最適だが、それに偏ってしまうと、社会で生活して上で欠かせない自分、他人への働きかけ、つまりは行動に繋がらなくなってしまうので控え、行動ベースの実学で補っていくといったところである。
私もこの考え方には賛成だが、実学に偏り過ぎてもいけないと感じる。
例えば、ショートケーキが大好きだとして毎日、それだけ食べていたら、糖分の処理能力が低下し糖尿病を発症してしまう可能性がある。
これと同じように、農業に興味関心があるからそれだけ楽しいから実学ベースで学ぶとなると、農業に関する事柄については満点が取れるが、他の分野になると一切点数がつかなくなってしまう可能性が出てくる。
ので、座学と実学のメリット、デメリットを補完しつつ、同時進行で進めるのが無難である。
正直、こどもたちが色々な事業に社会科見学しに行き、その現場で働いている人たちの生の声や指導してもらった方が教育がより良く発展すると思う。
一を聞いて十を知ったつもりになってはいけない
一を聞いて十を知るとは、物事の一端を聞いただけで全体を理解することである。
賢者ほどこの能力に長けているが、それは必ずしも正解ではなく、全体像のピースを埋める手間が短くなったと捉える方が賢明と言える。
例えば、1冊の本を読んだとして、10冊分の本の内容を理解することはボリューム、要点の量から考えてみて、不可能に近いというのは客観的に見て分かるだろう。
ただ、賢者であるが故に、時間軸で考えて、何も具現化された内容を細かく理解する必要性はないと感じたり、フレーズから派生させれば事足りると思い込んでしまうパターンがある。
よくこの問題集だけ抑えれば、テストで〇〇点取れるというが、実際、当人に合った問題ボリュームにそぐわなければ、決まった点数というのは取れないだろう。
一を聞いて十を知るというのは素晴らしい能力の一つであるが、一を聞いて満足して九知る機会を損失するとなると話は変わってくる。
意外とこれに気がついている人は少なく、大概は有耶無耶になって海底で呼吸していると思う。
多分、一つの言葉を理解するためには幾つかの本を読む必要があり、その量をこなさない限り、意義の絶対値というのは崩れてしまうだろう。
全ての事象は図形に変換できる
私たちの身の回りの事象の全ては、図形に変換することが可能である。
理由は、Aという事象には数字が含まれており、形を成すための線が含まれているからである。
例えば、情熱という表現があるとして、連想ワードとして炎や火をイメージすると思う。
また、相違という表現の場合、A=/Bではなく、違う図形同士の組み合わせを考えたら容易に変換できる。
全ての事象は数学に変換でき、尚且つ、数学の中にある図形と紐づけることができるという
論理式が完成する。
全ての度合にもよるが、言葉同士を組み合わせていけば、一つの物事の形成というのが成り立つわけでその注釈して効力を発揮し、その要素同士の組み合わせの末が形となる。
図形にするメリットしては、アイデア発想は勿論、思考整理をコンパクト化する効果がある。
また、物事を思い出す際に言葉の輪郭というのが掴めていれば、輪郭から観察へと昇華することもできる。
図形は音階のように無限に組み合わせられ、そのサイズの大小も異なるので、少し輪郭が柔らかい論理で形成されていると思って欲しい。
要約力を磨く
その物事の本質について理解している場合、Aという物事をコンパクト化した重点がまとめられたA´を作り出すことができる。
つまり、全体的な話の内容=文字数の総和についてまとめると、総和の中にある修飾語を省いた相手の思考の全体像が最小の値で理解できるということである。
相手が伝えたい内容の意図としては、新しい製品開発における賛否の意見の収集、○○という事実の伝達及びそれについての感想など、相手側が返して欲しいアンサーが用意されている訳である。
ただ、この要約力を磨きすぎると、かえって、美文字といわれる、文章における強弱の少ない素朴な文、会話の尺を好むようになる危険性がある。
例えば、読書する本の選別にあたり、最大限の要約力を好むようになると詩的な文章の作品しか心が受け入れなくなり、長文=悪筆といった誤った考え方を生み出しかねない。
ただ、満遍なく読書して一つの知識の結晶を作るとすると、詩的な文章だけでは専門的な知識性の欠けた紆余曲折な美に惑わされてしまい、知識の幅が窄められてしまう。
目の前の綺麗な池の中に金平糖のように色鮮やかな鯉が泳ぎ回り、その背景には薙ぎ倒された自然が横たわっていたとし、その両方を組み合わせたら、それは美でも愚でも中立でもない背徳感の塊でしかない。
ので、どんな物事にもバランスは必要であり、要約力も例外ではない。
組み立てるための本数や、芸術における線の本数が少なければ少ないほど空間の作用により見栄えはいいが、シンプルさ故の思考の粗さというのはわかる人間にはわかる。
偶々、一枚の絵に真摯に向き合う時間が少なく、それを芸術と呼ぶのなら、彼、彼女自身における人間味のブランドという評価が価値として表されただけである。
何でも気になったことは積極的にメモを取る
人生を変えるためには何を始めるべきかと問われたら、迷わず、メモを取ることを推奨する。
ただ、メモといっても日々の簡易的な興味関心のあることを書き残したり、感情の具合を表に表したりするだけではなく、もう一歩踏み込んだレベルまでメモを取るように心がける。
長年、似たようなメモを取っているのであれば、そのメモを取る際の切り口が間違っていたり、不足している知識を怠慢で押し切ろうとしている強欲さがあるかもしれず、無意識の内に何かに決心し、納得し、諦めている可能性が高い。
メモというのは、現状の心の表しを文字に起こし、客観的な事実として述べる作用がある。
また、その文字の具合に関しては鋭敏さに長けていれば即効性のある直感ありき、深考に長けていれば一部の気になる箇所の抜粋、及び、その解決策に至るという訳である。
思考している内容に関して、どうでもいいと思ってしまっているものもあるが、それが堂々巡りしている場合は一度書き出して、ループしてしまっている接着剤的な単語を見出し、それに対しての適切な解、ない場合もあるが、埋めることができればループを止めて、前に進むことができる。
メモで人生を変えることができるという本の大半が、今までの自身の経験をまとめ、現状何ができるのかフォーカスした上で行動に落とし込んだから偉業を成し遂げることができたというのがカラクリである。
人知的な神様がいるとしたら、それはまさしくレベルの高いメモのことである。
ギフテッドの生き方について
https://news.yahoo.co.jp/articles/098ab5c6518ce420caff6f6e1ae5c6b1e2115b38
文部科学省が、生まれつき知性が高く、特定、全般の分野における突出している先天的な特性を持つギフテッドと呼ばれる子どもの低額ながら支援する方針を決めた。
今まで、政府はギフテッドの子に対して適切な支援を行っていなかったので、これは朗報ではあるが対応があまりにも遅い。
ギフテッドの子は高IQを持つが故に、周りの子と会話がうまくいかず、不登校、いじめを受けるといった扱いを受けるのも少なくなく、周りからは人と違うというようなレッテルを貼り付けてくる輩もいて、その子にとってふさわしい環境が用意されているのなら別だが、それ以外の子は肩身の狭い思いをしている。
ギフテッドの子たちはその才能を伸ばせるような専門的な教育を受けさせてあげるのがベストであり、満遍なく義務教育を受けるというよりかは、その道のプロの人たちの研究に参加させてもらったり、身近な難問に対して正しいデータの取り方を教えてあげた方がその才能が開花されていくはずである。
日本は平等主義を掲げているが、結局のところ、才能における思惟の停止を促しているだけである。
正直、ギフテッドの子は日本でこのまま暮らしていくのは厳しく、海外での生活を強いられるようになる。
別にこれを悪い意味で捉えるのではなく、日本でのギフテッドに対する支援というのには限界があり、それに見切るをつける必要があるからである。
あと、自身がギフテッドであると判明したら、人間関係に違和感を感じていたら、全て見直して、まっさらな気持ちで新しい人生を歩んでもらいと思う。
興味関心のあることに無我夢中になれる才能があるのだから、それを思う存分引き伸ばして欲しい。
自分の目で確かめずに情報を鵜呑みにしてしまうと
偏った常識への危惧については散々書いてきたが、情報を鵜呑みにするとどういった危険が伴うのか要点だけかいつまんで説明したいと思う。
私たちの日々の情報は、ニュース、新聞、SNS、互いのコミュニケーション、本、論文、たくさんの情報が混ざり合って、純度の高い情報を信頼し、それを知識として身につけていく。
ただ、多忙な状況に置かれてしまうと、なるべくコンパクトな情報を好むようになり、その情報のレベルは考えず、暗記だけに焦点が当たってしまう。
ブログ、SNSにしろ、記事には尺というのがあり、大切な情報を抽象的に表現し、その記事の尺を調整している場合が多い。
SNSどうオーディエンスにアプローチするのか、記事の書き方以前にブログを書くために必要な語彙力を磨くための実際の行動だとか、一つの手間は省かれており、実際、インターネットで検索する際は、ピッタリした検索ワードに当てはまった記事しか参照できない仕様になっている。
詳細の限界はそこまでで、臨界点である錯覚し、それを自身の知識量と混合させて、新たなバイアスを作っていく。
その段階で、確立した詳細な知識になれば良いが、恐らく、難しい。
あと、情報を鵜呑みにしてしまうと、無知の人に説法される危険にも遭遇しかねない。
その人の中にある適当な断言された知識で、あたかも客観的に信頼されているような言い分で心理的に迫ってくる“愚“。
その一挙手一投足が言語的に理解できる人なら良いが、その人の言っている内容が絶対的な知識量で納得できない限りは難しい。
今回は、情報を鵜呑みにしてしまう危険性について紹介させてもらったが、環境にしろ、人にしろ、審美眼というのを培ってもらいと思う。
美しさというのには一切不純物が混ざっておらず、それだけで自然的な優雅さが備わっているはずだから。